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東京高等裁判所 昭和49年(ネ)1498号 判決

控訴人 吉田桂子こと 李一立

控訴人 朝日観光株式会社

右代表者代表取締役 姜徳周

右控訴人両名訴訟代理人弁護士 大谷喜与士

被控訴人 山田政吉こと 李庚大

被控訴人 四ツ和観光株式会社

右代表者代表取締役 長野武雄

同 秋山保信

右被控訴人両名訴訟代理人弁護士 今村甲一

主文

原判決中、控訴人李一立の敗訴部分を取り消し、同控訴人に対する被控訴人らの請求を棄却する。

控訴人朝日観光株式会社の控訴を棄却する。

訴訟費用は、控訴人李一立と被控訴人らとの間においては第一・二審とも被控訴人らの負担とし、控訴人朝日観光株式会社と被控訴人らとの間においては、被控訴人らについて生じた控訴費用を二分してその一を控訴人朝日観光株式会社の負担とし、その余を各自の負担とする。

事実

一  控訴人らは、それぞれ「原判決中、控訴人ら敗訴の部分を取り消す。被控訴人らの請求を棄却する。訴訟費用は第一・二審とも被控訴人らの負担とする。」との判決を求め、被控訴人らはいずれも控訴棄却の判決を求めた。

二  当事者双方の事実上及び法律上の主張並びに証拠の提出・援用・認否は、次に付加・訂正するほか、原判決の事実摘示のとおりであるから、これをここに引用する(ただし、請求原因第二及びこれに対する認否の部分を除く。)。

(請求原因に対する控訴人李一立の答弁)

(一)  前記引用にかかる原判決記載の請求原因第一の一1の事実中、賃貸借終了時に返還すべきものとして授受された保証金が金一二二五万円であることは否認し、その余の事実は認める。同控訴人が受け取った金一二二五万円のうち金四二五万円は、賃貸借が終了しても返還することを要しない権利金である。

(二)  同一2の事実は認める。

(三)  同二の事実中、控訴人朝日観光株式会社(以下、控訴会社と略称する。)と被控訴人らとの間で、被控訴人ら主張の保証金返還債務引受の約定がなされたことは否認し、その余の事実は認める。もっとも、本件建物が控訴人李一立から控訴会社に対して真実売り渡された事実は存しない。

(四)  同三の事実中、控訴人ら主張の断行の仮処分の執行がなされたこと及び被控訴人らからの契約解除の内容証明郵便が控訴会社に送達されたことは認めるが、その余の点は争う。

(控訴会社の抗弁)

控訴会社と被控訴人らとの間の各契約条項には、控訴会社が被控訴人らから金一二二五万円ないし金八〇〇万円の保証金の交付を受けたものとして、その返還に関する約定があるが、控訴会社と被控訴人らとの間に現実に保証金の授受がなされた事実はないのに右のような約定があるのは、本件のごとき経緯で賃貸借が終了することは控訴会社において全く予想せず、賃借人が自己の都合により契約を解除する場合には六ヶ月以前にその旨を賃貸人に通知すべく、賃貸人は明渡後、又は明渡までに五ヶ月以上の予告期間をおかなかったときは賃借人の明渡予告通知より五ヶ月以内に保証金を賃借人に返還する旨の特約があることによって明らかなように、被控訴人らに違約がない限り、被控訴人らの都合により解約される場合以外に賃貸借が期間内に終了することはなく、右の場合には新賃借人から預かる保証金をもって被控訴人らに対する支払をすれば、控訴会社が現実の出捐を強いられる事態は生じないことを当然の前提とし、その趣旨に沿う契約内容を定めることに当事者間の意思が合致したからであって、本件のような場合をも含めて、当事者間の約定につき保証金返還債務引受の合意としての効力の認められるとすれば、右約定は要素に錯誤があるものとして無効とされるべきである。

(右抗弁に対する被控訴人らの答弁)

右抗弁事実は否認する。

(証拠関係)≪省略≫

理由

一  被控訴人ら主張のとおり、控訴人李一立と被控訴人李庚大及び被控訴人四ツ和観光株式会社(以下、被控訴会社と略称する。)との間において、右控訴人所有の本件建物につき、それぞれ賃貸借契約が締結されたこと、及びその契約の内容が、保証金に関する点を除いては被控訴人ら主張のとおりであることについては、各当事者間に争いがない。

そして、≪証拠省略≫によれば、右各賃貸借にあたり、被控訴人李庚大からは金一二二五万円、被控訴会社からは金八〇〇万円の金員が、いずれも賃貸借の終了時に延滞賃料その他賃借人の負担する債務額を差し引いたうえで賃借人に返還されるべき保証金たる約旨のもとに、控訴人李一立に交付された(もっとも、被控訴人李庚大の金一二二五万円のうち金一〇〇〇万円については、その息子李九一と右控訴人との間における従前の賃貸借契約上、李九一が差し入れていた同額の保証金を、同人の承諾のもとに流用した。)事実を認めることができる(被控訴会社関係の保証金については、控訴人李一立との間では争いがない。)。控訴人李一立は被控訴人李庚大から差し入れられた金員のうち保証金として受け取ったのは金八〇〇万円にとどまると主張するけれども、右主張に沿う≪証拠省略≫は、前掲各証拠に照らし措信しえず、他に前記認定を左右しうべき証拠はない。

二  控訴会社が本件建物につき昭和四四年四月二三日控訴人李一立から買戻特約付き売買を登記原因とする所有権移転登記を受けたこと、及び控訴会社の求めにより、同年五月六日控訴会社と被控訴人李庚大及び被控訴会社との間で、本件建物の賃貸借に関し、保証金返還債務の引受の点を除いては被控訴人ら主張どおりの約定がなされたことについては、各当事者間に争いがない。

そして、≪証拠省略≫によると、右賃貸借の約定は、前記のとおり本件建物につき所有権移転登記を受けた控訴会社からの、本件建物を買い受けた旨の通告により、控訴人李一立と被控訴人らとの間の約定を一部修正のうえ控訴会社と被控訴人らとの間で踏襲したものであって、そこでは保証金に関しても、あらためて被控訴人らから控訴会社に金員が差し入れられた事実はなかったにもかかわらず、控訴人李一立が被控訴人らから交付を受けた保証金相当額を控訴会社が被控訴人らから交付されたものとして、賃貸借終了時には控訴会社からこれを被控訴人らに返還すべきこと、但し控訴会社主張のとおり明渡予告より五ヶ月内にこれを支払うべきことが合意され、以上の約定については、控訴会社と被控訴人李庚大との間では昭和四四年五月六日に、控訴会社と被控訴会社との間では同年六月五日にそれぞれ公正証書が作成されており、かようにして被控訴人らは本件建物の賃料を控訴会社に対して支払うべきこととなったことが認められる。

ところで、本来、賃借人の占有・使用している建物の所有権が譲渡された場合(控訴会社への所有権移転登記が経由された当時、被控訴人らが本件建物を占有・使用していたことは、控訴人らの明らかに争わないところである。)には、従前の所有者と賃借人との間の賃貸借関係は、同一の内容をもって、新所有者と賃借人との間に当然に承継されるが、保証金(敷金)の返還債務も右承継されるべき賃貸借上の権利義務関係に含まれるものと解すべく、このことは、新旧の賃貸人間における保証金の現実の引継ぎの有無ないしその負担に関する取決めの如何にかかわらないところというべきである。そして、この見地に立って前掲各証拠に照らしつつ前記認定事実を見るに、控訴会社と被控訴人らとの間の前記賃貸借に関する約定は、所有権の移転に伴う叙上の賃貸借の承継を当然の前提としたうえで、その内容に若干の修正を加えた結果を、承継後の賃貸借当事者間における権利義務関係として認め合い、これを公正証書により明確化したものと見るのが相当であり、したがって、爾後における控訴会社と被控訴人らとの間の法律関係が右約定に則り律せられるべきは、当然の事理である。被控訴人らが本訴の請求原因において保証金返還債務の重畳的引受として主張する合意も、ひっきょう、前記約定の一環として、控訴会社において所有権の取得に伴い新賃貸人として法律上当然に承継した保証金返還債務を確認し、その返還方法等に関して若干の付随的合意を付加したことを指すにほかならないものというべく、してみれば、爾後被控訴人らが保証金の返還を請求すべき相手方は控訴会社であり、控訴人李一立に対しては、同控訴人がその後も被控訴人らに対して右保証金返還の責に任ずべき旨の特約を被控訴人らとの間で結んだ事実の主張のない本件においては、もはや、その返還を請求しうべき限りでないといわなければならない(控訴会社が控訴人李一立との関係においてその負担を転嫁しうるか否かは、もとより別論である。)。

もっとも、≪証拠省略≫を総合すれば、本件建物の所有権移転登記は、控訴会社の控訴人李一立に対する概算金三〇〇万円の債権の保全・回収をはかることを目的とし、被控訴人らからの賃料の徴収等により右債権の回収を果たしたときは所有名義を再び控訴人李一立に返す約束のもとに、所有権移転に伴う清算関係等については格別の取決めもなすことなく、経由されたものであることが認められる。しかし、控訴人両名の間における右所有名義の移転が、控訴会社の賃料徴収による債権回収の目的から出た便宜上の措置にとどまることを被控訴人が承認していたことを認めるに足りる証拠はない(この点に関する≪証拠省略≫は到底措信しえず、≪証拠省略≫によっては、右事実を裏付けるべき根拠は見出しえない。)。そして、本件においては、むしろ、控訴会社は被控訴人らに対し、本件建物の所有権を取得し賃貸人たる地位を承継した前提に立って前叙のような賃貸借の約定をしていることは、さきに認定判示したとおりであって、控訴会社が抗弁として主張しているような特約を付して賃貸借期間の満了前に被控訴人らの都合により賃貸借の終了を生じた場合にも新賃借人から保証金を徴して被控訴人らに対する返還の資金をまかないうるように備えている(≪証拠省略≫によると、控訴人李一立と被控訴人李庚大との間では、かかる特約はなかったものと認められる。)一事に照らしても、控訴会社が、保証金返還の合意を含め、被控訴人らとの間の前叙のような賃貸借の約定を、真意を伴わない単なる便宜上の措置として講じたものにすぎないと見ることのできないことは明らかであり、一方、控訴人李一立においても、本件建物につき買戻権付きで所有権移転に関する合意をなすことに応じ、控訴会社が本件建物の所有権とともに賃貸人たる地位を承継したものとして直接被控訴人らから賃料の徴収をすることを諒承していたことは、いずれも≪証拠省略≫を総合することによって、これをうかがうにかたくないところであって(この点を強く否定する≪証拠省略≫は措信しえない。)みれば、本件建物所有権の移転に関する控訴人両名の間の合意につき本段冒頭で認定したような事情が存するとしても、右合意により本件建物の所有権が完全に控訴会社に移転したものとして被控訴人らに対する法律関係を律することが相当であるというべきである。

三  被控訴人らが昭和四四年六月二四日その主張のように訴外木村隆之助から本件建物中各賃借部分の占有を解いてこれを執行官の保管に移す旨のいわゆる断行の仮処分決定の執行を受け、各賃借部分を使用収益しえなくなったこと、及びそのため被控訴人らがそれぞれ主張の内容証明郵便をもって控訴会社に対し賃貸人の責に帰すべき履行不能を理由として賃貸借契約解除の意思表示をしたことについては、各当事者間に争いがない。

そして、≪証拠省略≫によると、被控訴人らは、右仮処分の執行を受けた後、控訴会社に対し(控訴人李一立に対しても)善処方を要請したが、前記内容証明郵便による解除の意思表示がなされるに至るまでの間、事態に変化はなかったことが認められ、それに、≪証拠省略≫によると、右断行の仮処分が発せられるに至ったのは、控訴会社への所有権移転登記が経由された時よりも以前に、右木村を債権者とし控訴人李一立及び同人が代表者となっていた訴外朝日産業株式会社を債務者とする処分禁止及び占有移転禁止(現状不変更を条件として右訴外会社の使用を許す。)の仮処分決定が執行されていたため、被控訴人らに占有させたことが右占有移転禁止条項に違反するとの理由に基づくものであったところ、右先行仮処分の本案訴訟は後日右木村の勝訴に帰し、控訴人李一立の所有権取得登記自体、判決により抹消されるに至っている経過をも勘案すると、被控訴人らと控訴会社との間の賃貸借は、遅くとも、被控訴人らが控訴会社に対し契約解除の意思表示をした時点において、控訴会社が被控訴人らに対し本件建物を使用収益させる義務を果たすことは社会通念上不能と解するを相当とするに至ったものとして(ちなみに賃貸人の責に帰すべからざる事由により使用収益をなさしめることが不能になったものと認むべき証拠はない。)、終了したものというべきであり、控訴会社の被控訴人らに対する各保証金返還債務の履行期も、ここに到来したものというべきである。

四  控訴会社は、当審において、被控訴人らとの間の約定につき本件のような場合をも含めて保証金返還債務引受の合意としての効力が認められるとすれば、右約定は要素に錯誤があるものとして無効とされるべきであると主張する。そして、被控訴人らが賃貸借期間満了前にその都合により契約を解除する場合について、控訴会社が主張するような特約がなされていることは、さきにも認定したところである。しかし、控訴会社は、賃貸借の承継人として、本来、控訴人李一立が被控訴人らから交付を受けた保証金の返還債務を当然に承継すべき立場にあり、その返還に関し控訴会社と被控訴人らとの間でなされた合意も、前記のような特約を付加したほかは、右債務の承継を当然の前提として確認したものと解すべきことは、前判示のとおりである。してみれば、前記特約は、被控訴人らの都合による期間満了前の解約という事態に備えて、その場合にも(期間満了による賃貸借の終了の場合と同じように)、新賃借人から徴した保証金をもって被控訴人らに対する支払に充て、現実の出捐を避けられるよう配慮した結果定められたものであると解されるにとどまり、そのことから、それ以外の、新賃借人を求めることができないような事由により賃貸借が終了し、そのため控訴会社において保証金返還のために現実の出捐を強いられる結果となる場合には、一切返還の責を負わないことが契約の前提となっていたものと解すべき理由は到底見出しえず(とりわけ、本件のように控訴会社の責に帰すべからざるものと認められない履行不能により賃貸借が終了した場合にまで、控訴会社が保証金返還義務を免れるという解釈が、条理上採りえないことは明らかである。)、現実に控訴会社と被控訴人らとの間で成立した約定中には、控訴会社が保証金返還義務を負う場合をその主張のように限定した趣旨に解すべき条項は、もとより存しない(前顕甲第四・五号証、とくに前者の第一二条、後者の第一〇条参照。ちなみに、控訴会社は、右両条が保証金返還義務を認めた基本的条項であることを看過している。)。してみれば、かりに本件のような経緯によって賃貸借が終了し保証金の返還を余儀なくされる事態は控訴会社の予測しなかったことであるにしても、要素の錯誤を認めうる余地はなく、控訴会社の右主張は採用の限りでない。

五  以上判示したところによれば、控訴会社に対し、被控訴人李庚大には保証金一二二五万円とこれに対する履行期後である昭和四四年一二月四日から完済に至るまで商事法定利率年六分の割合による遅延損害金、被控訴会社には保証金八〇〇万円とこれに対する履行期後である昭和四五年一月一七日から完済に至るまで同じく年六分の割合による遅延損害金の各支払を命じた原判決は正当であって、本件控訴は理由がないのでこれを棄却することとし、一方、控訴人李一立に対する被控訴人らからの保証金の返還請求は理由がないものというべきところ、これを認容した原判決は失当であるから、原判決中、右部分を取り消して、この部分に関する被控訴人らの請求を棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法九六条・九五条・八九条を適用のうえ、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 室伏壮一郎 裁判官 小木曽競 横山長)

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